2025年2月26日
※こちらの記事は前編からの続きです。
3. 子どもたちの現在
福島家の「家族の言語政策」の終わりに娘たちの進路と現状について書きたいと思います。
3.1. 長女K
10年前では、大学進学先で迷っていた長女は本稿執筆時28歳で、今年(2025年)の4月から働き始めます。少し遅い社会人デビューですが、その経緯をご説明します。
3.1.1. 大学入試
長女はロンドンの私立高校で大学受験を迎え準備をしました。当たり前ですが、教育の言語が英語である娘の大学選びは、私たち夫婦が経験した大学入試と全く異なりました。世界は広く、自分たちがいかに無知なのかを思い知りました。
まずは、大学選びをするわけですが、英語で教育が受けられる大学の内、私たちがすでに知っている大学は「超有名校」で、その他「聞いたこともない有名校」というのが、世界に無数にありました。一方で、イギリスの高校の大学進学指導では日本の大学は選択肢にすらなく、イギリスの学生にとっては「日本の有名校」は、東京大学も含めて「聞いたこともない有名校」なんだと認識しました。確かに、私の勤務先の早稲田大学は日本ではそこそこ有名だと思うのですが、世界でその名前を知っている人に出会うのは大変難しいです。大学入試はまずは頭にある大学のイメージを払拭し、情報収集するところから始まりました。

ただ、この作業は大学の実質の実力を見定めることに繋がりました。もちろん「世界的に有名な大学に行く」という選択肢もあるのでしょうが、知名度は大学評価の一面に過ぎません。世界的には無名な早稲田大学にも強みがあるように、「聞いたこともない有名校」は、私が無知だから「聞いたこともない」わけであって、「有名校」であるのには理由があります。私たちにとって、世界の大学のほとんどは聞いたこともない大学だと認識し、情報を集めて娘の教育に適したところを探せばよいのだと思いました。
また、大学受験とは本人の条件(希望や学力)とともに家族の経済的条件も大学選びの大きな要因となります。そして、現実的な問題として、後者の条件が優先され、「予算は◯◯円だから、その範囲で選んで」ということになります。英語を教育言語の中心にした子どもは、世界中の大学に選択肢が広がったのですが、英米の大学は福島家の経済規模を大幅に超える学費がかかります。よって、英米の大学への進学は奨学金の多寡が条件となりました。
この「奨学金の多寡による選択」は、親の経済力が赤裸々に見定められるので、辛いものがありました。アメリカの大学は、学費寮費込みで、年に6万ドル(当時のレートだと7-800万円)くらいが普通でした。この金額を高校生の子どもたちがどのくらい理解してくれたかわかりません。ただ、クラスメイトには、1人分のみならず兄弟分すべてを、奨学金なしで払える家庭もあるわけです。大学入試は子どもの学力だけでなく、親の経済力も試験されているようでした。特に合格通知は届いたけれど、学費が払えなくて行かせられない場合、子どもは合格したけど、親が不合格という感じで、面目ない気持ちにもなりました。
当時、英国の大学は外国人には奨学金が見込めず、米国と日本の大学に絞りました。アメリカの大学は妻がリサーチしたリベラルアーツ・カレッジを複数受験しました。そして、入学許可をもらった日米の大学のうち、上記の事情に当てはめて、最終的には日本の国立大学の英語コースに入学しました。良い大学であるのは確かですが、子どもにとっては「聞いたことのない大学」だったかもしれません。おそらく福島家にふんだんな予算があればアメリカの大学に行きたかったのではないかと思います。しかし、次女の大学進学も控えていることもあり、日本の国立大学に決めました。
3.1.2. 大学時代から学部編入
長女が入学したのは授業が英語で行われるBiochemistryのコースで、3年時に研究室に移り、最終的には工学部を卒業しました。入口は英語コースとはいえ、研究室選びはオープンになっており、日本語ができることにより選択肢は広がったようです。高校に入った辺りから、学校の勉強が忙しくなり、「教育の言語」は英語のみになっていました。ただ、「家庭の言語」は日本語モノリンガルでしたので、それを基盤として日本で生活しながら日本語力も上げていったのではないでしょうか。
「家庭の日本語」と「教育の日本語」は、同じ日本語でも違う言語と思ったほうがよいほどに違います。ただ、「教育」という領域に言語活動の必要が生じれば、「家庭の言語」は重要な言語資源となります。主な違いは語彙とスタイルでしょうから、その他の要素は知っている日本語を加工すれば効率的です。複数言語使用者は、必要に応じて言語レパートリの使用領域を拡大することが可能で、これこそCEFRでいう「社会的存在」としての言語ニーズなんだと思いました。
4年生になり卒業後の進路を考えるようになったとき、長女は子どもの頃からの希望であった医学の道を再考します。高校生のときにも医学部進学への希望はあったのですが、当時の日本の大学の医学部にはIB入試などなく、また海外の大学の医学部は奨学金も見込めず、関心領域に近いBiochemistryに落ちついたのでした。ただ、卒業・就職という今後の進路を考えたとき、当初の希望が戻ってきたようです。1年時から入学するには大学入学共通テストなどを受験する必要もあり、国語(古文、漢文あり)や社会科がネックになりました。長女は国内外の様々な可能性を探し、結果的に日本の国立大学の「学士編入」にその入口を見つけてきました。いくつかの大学では入試科目が、語学、生命科学、面接となっており、長女にも対応可能な経路でした。すべての大学を合わせても定員は少なく、どの程度その選択が実現可能なのかは、家族の誰もわかりませんでした。ただ、プランAとしてこの経路を進むこととなりました。進学の準備は長女が行ったので、その工程の内実を私は知りません。結果としては一つの大学から入学許可がでて、工学部卒業と同時に医学部2年生に編入となりました。
医学部では日本語で授業も実習も行われます。「教育の言語」がついに日本語となったのです。長女から日本語そのものに関する悩み等は聞いたことはありませんが、「教育の言語」の困難さは日本語の困難さというより、学習内容の困難さとなるので、あまり言語的な問題としては意識されなかったのかもしれません。入学から5年が経ち、初期研修先の病院も決まり、今年(2025年)、3月に卒業する予定です。今後の職業領域では日本語がメイン、英語がサブとなるでしょう。そして、その先はわかりませんが、高校時代から始めたフランス語の学習は今でも続けており、将来的には新たな道に続いているかもしれません。いつの頃からか長女の言語政策の担い手はすっかり本人になっていました。

学習ノート
3.2. 次女M
10年前、中学生だった次女は現在24歳。今や立派な社会人です。トランプ大統領復帰で揺れるアメリカで働く次女の経緯をお話します。
3.2.1. 大学受験から就職まで
長女はロンドンから日本の大学に進学したのですが、次女はわたしの次の赴任地であるブラジル・サンパウロのアメリカ系のインターナショナルスクールに入学しました。サンパウロには英国系など、いくつかのインターナショナルスクールがあったのですが、大学受験を見越してIBの取れる学校を選びました。
大学進学に際して、次女も長女同様、アメリカと日本を併願しました。アメリカの大学進学については奨学金の多寡が進学の条件となるのは長女と同様の条件でした。何に関してもそうですが、二人目は一人目の経験を踏まえていくので親も子どもも経験値が高くなっています。いくつかの日本の大学(英語コース)とアメリカの大学から無事入学許可がもらえ、アメリカの大学の中には、給付型の奨学金を加味すると福島家でもなんとかやれる大学が含まれていました。その中から、次女はアメリカ、アイオワ州のリベラルアーツ・カレッジを選び、2018年に進学しました。進路については、長女からのアドバイスもあったようです。

大学の寮
2020年にはコロナもあり、日本に帰国を余儀なくされ、一時期日本からオンラインで受講していました。時差の関係で深夜の授業も多く大変な苦労を強いられました。さらにアメリカに帰国しても、アメリカ特有のスパルタ教育で、これまた寝られない日々を過ごしていました。日本の大学の私立文系卒業生の親としては、あまりにも苛烈な環境で鍛えられる娘の無事を祈るのみでした。そして、2022年、長女と同じくBiochemistryを専攻し、さらにアイオワ州の中等教育の理科教員の資格も取り卒業をしました。教職員の資格を取るなんて両親は思ってもいませんでしたね。次女についても、当然ながら、進路決定のイニシアティブは、すっかり本人に移っていたのでした。

プレゼンテーション
3.2.2. アメリカでの就職と今後
理科系(STEM)の学部の卒業生には3年間アメリカで働くチャンスが与えられるとのことで、アイオワ州に近い、ウィスコンシン州のマジソンにあるCRO(医薬品開発業務受託機関)で働くことになりました。現在も同じ会社で働いていて、社会人3年目です。就職活動やどのような経緯でCROという仕事に就いたのかなど、もう、私はわかりません。ただ、「職業領域」の言語は英語になり、その選択は娘自身が行ったことになります。
そして、本稿執筆中、次女は次のキャリアを模索中で、日本も含めた進路について検討しているようです。次女は大学から職場まで、ずっと英語で生活をしていますが、家族とは四技能すべて日本語で対応します。この言語資源を活用しつつ、今後の就職や、進学などに日本語も活用できるのではないかと思います。考えてみれば、世界の日本語学習者は「あいうえお」から始めて、4年後には日本の大学で勉強していたりします。領域は異なっても、少しでも日本語資源があれば、学習のアドバンテージがあるといえるでしょう。特に「聴解」「発音」など音に関する利点は大きいです。
複数言語使用者である次女のキャリアのデザインはモノリンガルの両親の想像を超えるようになりました。ただ、一つ理解したのは、複数言語の育成は時間がかかり、両親も本人も、焦らずゆっくり必要に応じて使えるようにするのがよいということです。言語教育的には「行動中心アプローチ」に則り、「自律学習」「生涯学習」を通して、自らの道を切り開いていくことになると思います。この長い成長の過程で嫌になったり面倒になると思うのですが、ある意味、それは自然なことだと思います。言語政策は、自然に任せると消えてなくなるものを、意図的に実現する根気のかかる営みとも言えるでしょう。
4. おわりに
ところで2024年8月、マジソン市で「日本語教育国際研究大会」があったのをご存知の方もいらっしゃると思います。そうです。マジソンは次女が働いている街なんです。日本語教育の国際大会が、広い世界の中で、自分の娘が働いている街で行われる偶然に驚きながら参加しました。
マジソンは緑に包まれ、道が広く建物もそこまで大きくなく、広々と空が大きく見えました。東京のうだるような暑さと対照的に爽やかでした。次女は職場近くにインドルーツと中米ルーツのアメリカ人と3人でルームシェアしています。ルームシェアといっても大きなダイニングキッチンとそれぞれの個室があり、東京の住宅事情からは想像できないスペースがありました。ルームメイトは、大学時代の同級生で会話は英語です。大学時代の関係性が続く親しみのあるスタイルで話が途切れることなく進みます。三人の会話を聞きながら、よい友人ができたことを嬉しく思うとともに、次女のことばがもうわたしの想像もつかないところに到達していることに改めて気づきました。考えてみれば幼稚園から英語で生活している子どもたちの英語は、もう何十年も前からわたしの理解を超えていたのでしょう。娘たちが友だちと話す場面に接する機会はあまりなかったので、止まることなく行き交うことばの波に圧倒されました。
学会が終わって日本に移動するまでの空き時間に、次女とルームメイトは近くにあるデヴィルス・レイク州立公園まで車で連れて行ってくれました。湖の辺で多くの人が家族や友人同士でバーベキューをしたり、スポーツをしていました。湖の辺で座っていると、3人はUNOを取り出しました。なんだかとっても海外っぽいですよね。UNOは大昔、子どもとやった以来で忘れていましたが、途中、3人に教えてもらいながらやりました。結果、わたしはビリでした。実は、やっている間、負ける感じはしていなかったのですが、圧倒的にビリでした。
みなさんも記憶にあると思いますが、昔、子どもたちとゲームをするときは、子どもに泣かれると困るので、勝ち負けを計算しながらやったものですよね。ただ、今回はガチの負けでした。もっというと、気遣われつつの負けです。圧倒的な時間が流れ、小さかった子どもたちはもういないのだと実感しました。二人ともわたしの想像を超えた世界を生き、子どもたちが言語政策の主体となりました。当たり前なんですけどね・・・
同時に、親としての役割の終了を実感しました。たくさんの荷物をようやく下ろせたような気もしましたが、考えみると、そんなにたくさんの荷物をもって歩く必要もなかったかもしれません。ただ、親という役割を担うのも初めてでしたし、ましてやバイリンガル。ゆく道は初めての道ばかりでしたので、荷物を溜め込んでいたのでしょう。
これを読んでくださっているみなさんの中にも、結果的には不要になる荷物をたくさん抱えて移動されている方もいらっしゃると思います。ただ、それを含めて家族の物語となるのだと思います。効率的な人生も魅力的ですが、効率というのは結果がわかるまでは評価ができません。わたしたちは、あれこれやってみるしかないように思います。この軌跡こそが家族のありかたになると思います。いつか皆さんのお話もお聞かせ下さい。
(福島青史 早稲田大学国際学術院大学院日本語教育研究科教授)

デヴィルス・レイク