2026年3月12日
合わせて五人、主にドイツで子どもを育てる中で、僕はもう30年近くも複言語を生きてきた。僕自身はいわゆるバイリンガル育ちではないのだが、日本語とドイツ語を、両方とも自分にとって大切な言語として、自分自身の思考や感情を構成する言語として、「平等に」大切に扱おうと努力してきた。長い間、子に対し、二つの言語で父親であろうとしてきた。
だが、日本語で話す方が、自分の気持ちやありのままが子に伝わるようだ。そんな風に感じるようになった。日本語モードの方が、と言ってもいいのかも知れない。僕の声音、口調、表情、そういったものがおそらく総出でそこに参加していて、それは言葉と切っても切れないからだ。片目を細めながら、天井を仰ぐように言う「んー」とか、すぐに応えられないときに出現する「間」である。自分の気持ちの動きを僕は日本語モードの方が豊かに表現できる。体が一緒に喋る。「わかった」とか、「よっしゃ」とか、全体重をかけて言える。ぽそりと「お父さんちょっと悲しいな」と日本語で言えば、気を動転させながらもそれを感じ取ろうとする子の姿がそこに現れてくる。不思議なことだ。
話す、ということは命が流れているということだ。僕が親にもらった命がそこに流れている。僕が聞いた言葉、僕に向けられた言葉。それは僕を作った。そして、子に話すときに、その命たる言葉、命そのものであるような言葉が、今度は僕から子へ注がれるのだろう。そしてここで僕がいう言葉というのは、コトバのことだけではなくて、呼吸、沈黙、声、つまり体全体の語りのことだ。
実は僕はドイツ語がとても上手だ。これは自分の能力を自賛しているのではなくて、僕がここで言わんとすることを説明するのに不可欠な情報だ。細かい感情の動きの描写や、これはもう哲学だな、と言えるくらい精緻な概念運用を僕はドイツ語ですることができる。単に一つの能力だというだけではない。僕にとってドイツ語はとても大切な言葉だ。妻との関係を生きたものにしてくれている言語であり、多くの友人たちとシェアしている言語でもある。日本語と共に、僕の思考を支え、感覚や感情を担う力でもある。僕の愛する詩や文学の多くはドイツ語で書かれている。でもドイツ語では僕は子育てがうまくできない。そう感じるようになった。
それを最初にぼんやり感じたのは、子と口論になったときだ。言いたいことを日本語で言っても、ドイツで育ち、(文字通りの意味で)母語*がドイツ語である子どもに理解できないだろうと思い、こちらはついドイツ語になる。子の側も、ここは口論なわけだから、自分が得意なドイツ語を選ぶ。スピーディーなジャブがガンガン繰り出されてくる。あんまり見事な、まるで手慣れた人が素早く靴の紐をくくるような論舌に追い込まれ、身動きが取れなくなるような気がして、こちらも負けじと舌の回転数を上げ、声のボリュームもつられて上昇する。途端に負けだ。普段そんな速度で議論などしないから、迂闊にも偏った断定的な言葉が飛び出してしまい、そこを間髪入れずに突かれる。しかも誇張した呆れ顔で。そして何よりも、ドイツ語で「そのトーンはないでしょ」と来る。言葉のついてこないフラストレーションから、我知らず、自分の声が怒りに支配されている(子に対する怒りではなくて、こんな議論に対する怒りだ)。だがドイツ語での議論は感情的になってはダメなのである。できるだけ冷静に、声を抑制し、理路整然としたコトバで戦わなくてはならない。勝つのは熱さではなく冷静さだ。そういう特徴を持つドイツ語の土俵では、ドイツ語を母語とする我が子にあっという間に上手を取られてしまうのである。
しかし問題は、僕がドイツ語の土俵に乗ることで子に口論で負けてしまうということではない。そうではなくて、ドイツ語で口論になったときに、僕の体も心ももはや参加していない、そこが問題なのだ。参加しているのはカッとなっているアタマだけである。僕と子との関係はまずもって身体的なものなはずなのに。それが切れてしまったような言葉が子どもの胸に届くはずがない。それは子のアタマにしか届かず、アタマボクシングが延々と続くだけだ。勝ち負けではない。コトバのレベル、理屈の土俵に移行した途端、心身存在全体をかけた子との対峙に僕は父親として初めから失敗しているのだ。
では、子と口論になったときドイツ語になると体や心が参加しないというのは、ドイツ語がそういう頭デッカチな言語だからなのか。日本語の方が感情的で細やかだからか。そうではない。仮に言語の傾向や特徴はあったにしても、そんな一般論でドイツ語と日本語の違いは片付かない。日本語でもカントは読めるし、ドイツ語でも俳句は作れる。これは僕自身と日本語の関係、僕自身とドイツ語との関係の問題なのだ。親子関係を、僕自身が子として、日本語で学び日本語で身につけた。もっと言うと、いのちのことばを、僕は日本語で知ったのだ。
子と葛藤が生じたとき、「日本語で言いなさい」と僕は何度か言ったことがある。そこで僕は本当には何を求めていたのか。それは子との結びつきであり、命のかようふれあいなのだと思う。僕の親が僕と話したことば。そのいのちのつながりに、親として立つこと。
だが、ドイツで、子の母親の言語*がドイツ語である家庭において、通う学校もドイツの一般の現地校である中で、友達の圧倒的多数がドイツ語の母語話者である人間関係の中で成長する我が子に、「日本語で言いなさい」と言えるのか。僕はそれだけ子に日本語を語り、読み聞かせ、歌い、教えてきたのか。そしてそう求めたところで、実際問題、日本語の自由の効かない子はどうすればいいのか。
日本語で言いなさい。
それは、僕が僕に対していうべき言葉なのだ。
僕が日本語で言うことを子は全部頭で理解できなくても構わない。子は、僕全体を聞いている。全身で聞いている。
いのちがいのちを聞いているとき、自分はどの言語を選ぶのか。
もっと早くこの問いを自身に向けるべきだったと思いつつ、どんなに遅くても、今からでも、繰り返し意識をしていきたいと思う。
子との関係においては、僕個人ではなく、いのちが語っているのだ、と言うことを。
*僕の上の二人の子の母親は英語が母語である。二人はほぼ一貫してドイツ育ちなので、英語はもちろん流暢ではあるが、ドイツ語が日常一番使う言語である。
写真(上から)ドイツ時代/母と妹/子どもたちと
武田 誠(TAKEDA Makoto)さん

1971年東京生まれ、2000年よりベルリンに暮らす。
【3つのリレー質問】
① 気に入っている「日本語の言葉や表現、漢字など文字」は?
むぎゅ
② 日本で人に言われて「嬉しいこと」と「いやなこと」は?
③「自分の中の日本語」を色や形、一つの言葉にたとえると?
流れる水