2025年2月26日
1. あれから10年
早稲田大学の福島青史と申します。本日は「家族の言語政策と福島家のその後」について書きたいと思います。「その後」とあるのは、かれこれ10年前の2014年に「『わたしの家族』の言語政策」を『つなぐ』に書かせていただいたことに基づいています。「その前」については、こちらをご確認ください。
当時のヨーロッパの日本語教育界はCEFRについての研究が盛んで、中でも子育て真っ只中にいた先生(=親)たちは、CEFRの内容と自らの子育てがつながり、熱を帯びていました。わたしもその親の一人で2014年当時はロンドンにいて、長女が18歳、次女が14歳でした。
そう。あれから10年です。子どもたちは二人とも成人し、わたしも相応に年を取りました。本稿では、実際の福島家の「家族の言語政策」と子どもたちの「その後」について書きたいと思います。
2. 福島家「家族の言語政策」あらまし
10年前に「家族の言語政策」は「『わたしの家族』のありよう」だと書きました。ことばはメンバーをつなぎ、成長を支え、家族や自分自身をつくる媒体です。移動する家族であった福島家は大まかに以下のような言語計画(表1)を立てていました。(用語等は「わたしの家族の『言語政策』」を参照してください)
表1 言語計画の概要

2.1. 席次計画
席次計画は「どの言語にするか?」という言語レパートリの選択です。福島家は、CEFRの「領域」概念を参照し、使用領域を3つに分け、①家庭の言語(私的領域)を「日本語」、②公共の言語(公的領域)を「現地語とすべての言語レパートリ」、③教育の言語(教育領域)を「英語と日本語」としました。
2.1.1. 家庭の言語
①家庭の言語は、わたしと妻の母語である日本語としました。日本語はわたしたち夫婦にとって一番身近な言語で、無媒介に子どもに触れられることばだったからです。選択というより自然にそうなったと思います。ただ、福島家の場合、日本語は私と妻の母語なので議論はなかったのですが、家庭言語が複数ある場合や、外国語が自分の一部になっている人がいる家族は、「どれにするか」という選択が生じるでしょう。家族をつくりあげることばですので、損得というより自分の身体の延長上にあるようなことばがいいのではと思います。その結果、家庭の言語が複数化することもあると思います。
2.1.2. 公共の言語
②公共の言語は、「計画」にはそぐわないかもしれません。特に福島家は移動する家族で、およそ3年で街の言語がウズベク語+ロシア語、ハンガリー語、英語、ポルトガル語と変わりました。わたしたち家族がハンガリーに移住したら街の人たちが慮って日本語で接してくれることはないわけで、わたしたちがとれる対応としては現地語を学ぶか、英語や日本語等ことばが通じる人を探すか、日本語でサービスが受けられる場所にのみ行くか、街との関係を絶つかしかありません。家族全体で言えば、できるだけ現地語を学習しつつも、能力を超えるところは仲介してくれる言語や人に頼りました。ただ、子どもに関して言えば、小さいうちは子どもだけでカフェにいったり切符を買ったりすることはないですし、親が社会との間にいる間は、言語使用を強いられる場面はほとんどない領域でした。

2003年頃サマルカンドにて
2.1.3. 教育の言語
③教育の言語は、英語をメインとし日本語をサブとしました。具体的には「学校の言語」を「英語」に、家庭などで行う学習を「日本語」にしました。この選択にはいくつかの理由がありました。まず、(a)福島家の事情(希望?)として、その後も海外を転々として生活すること、次に(b)高校卒業までは「学校の言語」は変えないということです。
(a)については、子どもの親である夫婦がどうやって生きていくか、そのためにどうやって稼ぐかという、希望と必要性の間に存在するのっぴきならない選択です。子どもが生まれるとわかった時、私は28歳でした。JICAボランティアで日本語を教え始めたばかりで、日本語教育の専門性もスキルもなく、生活のこともあるし転職も考えました。しかし、職務経験もない20代後半に対する世間の評価は厳しいもので、目先のお金が必要なわたしが最も稼げる仕事が「海外の日本語教育」でした。この選択肢は、短いながらもこれまでの職務経験も活かせるし、海外での生活を続けられ、夫婦の希望にもかなっていました。このように、子どもたちは生まれながらにして「移動する子ども」になったのでした。
(b)については、教育言語の習得の困難さが理由です。教育言語の習得がどんなに大変かということは、自分自身が一言語でも十分に大変だった経験からよく知っています。いわんや複数言語で居住地が変わることによりカリキュラムも変わるような環境は茨の道そのものです。「学校の言語くらいは変えない」というのはせめてもの選択でした。また、「高校卒業まで」というのは、往々にして中等教育までは各国独自の制度で固められており、中途参加をしようとすると負担が大きいからです。異なる国の中等教育へ参入するということは言語だけではなく、学習項目、進学制度など制度面も含めて全とっかえになります。数学、理科などシラバスが比較的国際的に共通する科目はよいですが、国語、社会などは、それぞれの国がナショナルな味をたっぷりつけています。これを習得するには、かなりの時間を要します。一方で、大学への参入は、昨今の国際化の影響でIB(International Baccalaureate) 、TOEFLなど国際的な資格を有していれば、参入可能な機関が増えてきました。このため、中等教育は、修了時にそれらの資格がとれる機関に入るという戦略を取りました。長女が小学校に入ったのはウズベキスタンにいたころでした。ウズベキスタンには日本人学校はなく、ウズベク語、ロシア語は国を変えた先で学習が保証されるかどうかわからず、「学校の言語」として英語が選択されました。
もう一つの教育言語としての日本語は、「義務教育の範囲の知識」の習得を当面の目標としました。日本語コミュニティに参加するには、一般的な知識が必要であるのは外国人のための日本語教育を通じて知っていました。例えば日本の県や市、有名な歴史的人物や政治家の名前は説明なく使われます。また、漢字も語彙の拡張性などを考えると義務教育レベルの知識はあったほうがよく、将来、「大学は日本語で」なんてなったときに重要なインフラの一つとなります。ただ、日本語の習得には時間がかかるし、「学校の言語」としての英語との兼ね合いがありますので、出発地点では、どの程度日本語の教育が続けられるのかはわかっていませんでした。
2.2. 実体計画と習得計画
Ⅱの実体計画は、日本語、英語、現地語をとりまとめた複言語の「混ぜ具合」の塩梅のようなものになります。本来実体計画とは、単一言語の音声、文法、語彙、表記などの計画を指しますが、複言語人材の内部では複数言語が混在しつつ互いにネットワークを持っていますので、ここでは比喩的に「混ぜ具合」の塩梅と表現しました。
方法としては、領域ごとに必要な言語を選択し、Ⅲの習得計画により具体化していきます。結果的にそれらが一人の人間の中で混ざって一つの複言語を形成していく感じです。全体のイメージは表2を参照ください。
表2 領域ごとの言語計画
① 家庭の言語(日本語)

② 公共の言語(現地語)

③ 教育の言語(英語+日本語)


ここもCEFRを援用し、必要な「言語活動」つまり「言語を使ってできること(=Cando)」を技能別(聞く・話す・読む・書く)にピックアップし、それぞれの「レベル」を考えました。表2の用語はCEFRとは異なりますが、バイリンガリズムのように高度な2つの言語を計画するにはCEFRのCandoは細か過ぎました。
ただ、複数言語使用者のデザインを考える際、CEFRが提示した概念は役に立ちました。例えば、使用場面を「領域」で分け、必要な言語行動を「言語種」×「言語活動」×「レベル」で表現する。また、ゴールとして「すべての領域で、すべての言語により、すべてのことができる」という(不要な)理想は捨てて、その人のありように応じて(=「社会的存在」)、豊かなマダラ模様(「複言語」「部分的能力」)を想定していくことなどです。また、Ⅲの習得計画を考えるうえでも「生涯学習」「自律学習」は、キー概念になります。
複数の言語の習得はモノリンガルと比べて、単純に時間がかかります。また、複数言語話者は複数言語社会に参加するので、成長の過程で、文化差や偏見、アイデンティティの問題などいろいろ乗り越える壁もあるため、成長を長めに丁寧にみる必要があります。わたしの娘たちもすでに成人していますが、複言語能力は「未だますます発展中」だと思います。
2.2.1. 家庭の言語
家でのことばは、「わたしたちの家族」を形成する最重要な領域です。CEFRのCandoは、成人の外国語学習者がデフォルトなので、使えるものが少ないです。とりわけ、小さなこどもとのコミュニケーションに対応するものは何一つありません。
なにしろ、わたしたちは生まれたての赤ちゃんとも話します。あれはことばで何をしているのでしょう?? 「存在の無条件の承認」でしょうか?? 眼の前に自らの生命の分有が存在することの驚きとよろこび、子どもの存在を無条件に受け入れつつ、同時に親も自分自身の存在が承認されるような充実感を確認しているのでしょうか?? ことばをかけ、子どもが応答する。原初の言葉がけは、世界に自分たちが存在する意味と価値の無条件さを確認していたのかもしれません。子どもは、その後、身体的にも心理的にもどんどん発達して親の意識からは自立していきますが、初めは「親-子」という生存の拠り所を作る作業をしているのかもしれません。
話が長くなってしまったのですが、このような親密圏を構成できる言語を福島家にある言語レパートリから選ぶ場合、両親の母語である日本語しかなったと言えます。そして、その範囲で子どもと「聞く・話す、読む・書く」というすべてのチャンネルを使い意思疎通がしたいと願いました。
習得の方法は、子どもが幼稚園に行く前、つまり家族以外の社会と接点を持たない時分の「話す・聞く」の管理は比較的容易ですが、幼稚園、小学校にあがると難しくなります。姉妹間の会話に英語が入るようになりました。福島家では、家と学校を厳然と分けて言語政策を取ることで境界線を作りました。あるいは、わたしたち両親が外国語を話す気がなかったので、自然とそのような環境になっただけとも言えます。
「読み」で威力を発揮したのは絵本でしょう。妻の両親が毎月『こどものとも』『たくさんのふしぎ』(福音館書店)を世界のどこに行っても送ってきてくれました。図鑑も少しずつ買い揃えましたが、これらの本は「親子で一緒に読めて話せる」ということが大きいです。文字を追いながら読むこともでき、そこから想起されたエピソードや具体例を親子で話すことができます。「書く」に関しては、あまり記憶がないのですが、娘たちは読んでいるうちに「文字」は覚えていたようです。気がついたら裏紙に絵と一緒に文字を書くようになっていました。家族間のお手紙のようなものはありましたが、考えてみれば、家で「書く」という行為についてあまり注意は払わなかったかもしれません。書く能力は以下にある「教育の言語」の日本語によるものだと思います。
また、娘たちの世代は、生まれた頃からインターネットがあり、YouTubeなどを使えば関心のあるコンテンツにアクセスできました。「国際電話料金」という概念もないので、日本の両親などとも時間を気にせず、頻繁に話すこともできました。この環境は複数言語で育つ子どもにとって、大きな恩恵になっていると思います。

次女が最初書いた文字「(4-5歳頃?)まえみつ」 よく相撲をとってたもので・・
2.2.2. 公共の言語
上でも書きましたが、この領域は街の言語がデフォルトになります。福島家の場合、ロシア語、ウズベク語、ハンガリー語、英語、ポルトガル語がその候補でした。ただ、子どもが外の社会との接点を持たないとこれらの言語は必要となりません。その結果、娘たちは教育言語であった英語を除けばほぼ習得できませんでした。
ただ、これは両親の社交性が少ない福島家の結果なので、地域の活動に積極的に参加したり、友達の家族などをつなげて社会を広げることは可能だったと思います。両親の言語資源やバイタリティの欠如が子どもに影響を与えたと言えるでしょう。この点、ある社会にしっかりと定住されている複言語家族は、社会とより豊かな関係性を持てているのではないでしょうか? 国際結婚の場合は、より大きな広がりがあると思います。
2.2.3. 教育の言語
教育の言語は、上限はない領域で、やればやるほど高度なものが存在します。この領域の言語の習得は高度情報社会と言われる現代社会への参加形態に関わるため、四技能すべての習得を目指しました。
席次計画で「学校の言語」は英語としたのですが、「教育の言語」は教育内容の理解が最重要になるので、複言語話者の子どもは、言語レパートリ総掛かりでやるのが鉄則です。国語、算数、理科、社会という科目内容は、身の回りにある環境世界の認識や解釈のパターンであり、世界の読解構造を構成するのが教育言語の機能だと思います。娘の場合は日本語+英語を使ってこの構造の建築に挑みました。
福島家のケースでは、年少期の唯一のことばであった日本語が教育言語のスタートでした。何しろ学校に入った当初は英語は全くわからない状況でしたので、英語のテキストを親子で眺めながら、日本語を媒介にして、絵を書いたり例え話をしたりしながら教科内容の理解を深めました。
高校までは学校の言語は英語と決めていたので、英語の技能は学校のタスクに対応できることが目標でした。教育言語としての日本語は英語での教科内容の理解の橋渡し、補助、補強がその機能です。家庭版CLILです。ただ、前にも書きましたが、義務教育内容の日本語は、成人の日本語社会への参加のために重要になるので、継続できる間は、なるべく習得できるように心がけました。このため小学校から中学校までは、日本語の通信添削教材を使い、日本のカリキュラムでも教科内容の理解を進めました。数学や理科は重複する箇所もあり2つのチャンネルにより教科内容にアクセスできることは、利点もあったと思います。
これらの「計画の実現化」のフェーズの実際的な運営者は妻でした。上記の絵本や通信添削を「いつどのくらい」を計画し、毎日のルーティーンとして組み込みました。その他、具体的な学校選びやコースの選択(IBにするなど)は、妻の丹念な調査とアイデアから生まれました。大学受験の際、リベラルアーツ・カレッジを調べてきたのも妻です。複数言語の子育てにおいてはモノリンガルよりも多くの選択肢があるため、「決定」という局面には情報とその他の選択肢を捨てる勇気が必要です。このためには、「これでいく」という「ひらめき」が決め手となりますが、節目節目は妻の情報収集とセンスにより方向づけられたように思います。
私たち夫婦は人生の成り行き上、複数言語使用者の家族になったのですが、子どもたちの学習を見ながら、本当に複数言語家庭は大変だなと思いました。子どもたちは学校に行く前、早起きをして漢字の勉強をしましたし、通信添削は休日に学習することが多かったです。夜寝る前も、妻は子どもたちといっしょに本を読んでいました。これが、よい方法だったか今でもわかりません。海外には複数言語の子どもが多いのでモデルがいるかもしれませんが、わたしたち夫婦にとって、初めての子育てでしたし、多言語使用者と接するのも初めてでした。補習校にも行かせられればよかったんでしょうが、これは親の都合でできませんでした。「週末まで働けない・・」というのが、理由です。補習校は、同じ境遇の子どもと知り合える場所として貴重だと思うのですが、毎週ですし、人付き合いもあるし、結構、朝早いですよね・・(これは非社交的な福島夫婦のケースですので、できる家族は是非活用されるといいと思います)以上のような試行錯誤の中で家族の言語政策は修正されつつ実現されていきました。
(福島青史 早稲田大学国際学術院大学院日本語教育研究科教授)

2011年ロンドン 日本語による学習