複言語を生きよう

複言語を生きよう

後天的バイリンガル

シュペネマン望

私の両親(母・日本人、父・ドイツ人)は1960年代に留学中のシカゴで知り合い、私たち兄弟3人はドイツで生まれました。留学先から日本に戻らなかった母の両親はもとより、ドイツの父の両親も結婚には大反対で、ほとんど誰にも祝福されない結婚式だったそうです。国際結婚が珍しい時代に、いろいろな偏見に耐えながらも母はドイツ生活6年の間に見事にドイツ語を習得し、日本に戻ってからはドイツ語講師を定年まで勤め上げ、90に手の届く今でも、文法を完璧にこなします。

しかし、私たちの家庭にドイツ語はほぼ存在しませんでした。私が3歳の時に父の仕事の関係で私たち家族は日本の京都に移り住むのですが、多言語教育は子どもの発達によくないとの両親の見解から、私たち兄弟3人は地元の幼稚園や小学校に通わされただけではなく、学校で困らないようにと、家庭でも日本語だけを話すようにと育てられました。子どもだった私たちはその結果、物心がつく頃には日本語をしっかり身につけたのですが、ドイツ語は生活からほぼ完全に消えました。日本に引っ越した時に既に就学していた兄は「自然なドイツ語」を一度も忘れることはなかったようですが、私にとっては、ドイツ語は外国語になりました。父が牧師を務めていた月一度のドイツ語教会、ドイツ人の来客、3年に一度のドイツでの夏休みは苦痛以外の何ものでもなく、特に父の実家があったルール地方の夏が嫌いで、子ども心に「一生、ドイツだけには住むまい」と決めていたことを憶えています。

父の仕事の関係で小学校3年になったらドイツに戻るはずが、何度か延期され、いつの間にか、父は日本に残ることを決めていました。その頃には日本語しかできなくなっていた子どもへの配慮があったのかはわかりません。父は当時、大学で日本語で授業ができるまでにはなっていましたが、私たち兄弟の話す関西弁が最初はわからず、「それは日本語ではありません」といつも訂正されました。こうして子どもたちの日常は関西弁、父と話す時だけは標準語、横浜出身の母は終始標準語と、我が家では関西弁と標準語、そしてわずかなドイツ語の単語(Staubtuch, Waschlappenなど)が交錯する複言語環境がいつの間にかできていました。

日本語しか話さなくなっていても、私たちは日本では「ガイジン」であり続けました。人と違ったことをしても許される、そして父が西洋人であるがための羨望など、一種の「逆差別」を経験する一方、私にはなるべく目立たないようにおとなしくしている習慣がいつのまにか身についていました。

そのような経験が作用したのか、兄弟同様、私も大学卒業と共にドイツに移りました。ドイツ語の聴き取りは若干できたものの、文法もほぼゼロから学び、最初の3年間は右も左もわからずに暮らしていました。中でも苦労したのは、日本では「ガイジン」だった自分が、ドイツでは急に「日本人」にされたことによる「アイデンティティの危機」。そして、日本で受けてきた教育、慎ましさ、順応能力、協調性だけでは、ドイツでまず生き残れないことを認識した時の「人格の危機」です。

そんな私も今年でドイツ生活36年目を迎えます。ドイツ語で2つ学位を取り、仕事もドイツの職場という現在、日常の9割以上はドイツ語です。

夢を見るのも考えるのもドイツ語になっている今現在ですら、日本語は私にとって「心の言語」であり、話していて一番安心でき、自分を表現できる言語と言えるでしょう。「○○しなさい」と言われたことは今でも従順に守ってしまうし、自分のルールを勝手に作るドイツ人の前では、自分は「日本人」であり、日本に行けば、ズケズケと厚かましい「ドイツ人」になった自分を発見することもあります。しかし、若い頃とは異なり、今は言葉も心も思考も、その時々で変化してもいいのではないかと考えます。バイリンガルも別に、両方の言語が完璧ではなくてもいいのです。

ドイツに来た当初は日独ハーフの完璧なバイリンガルの存在を知り、ドイツ語を継承してくれなかった親を恨んだ時期もありました。そして、自分に子どもができて初めて、子どもと共通の言語を持たなかった父の苦労を身をもって知りました。

自分の子どもたちは幼稚部から日本語補習校へ通わせ、最低限の読み書きを学ばせ、家庭では十分に伝えきれない「日本文化」に触れる機会を大切にしてきました。日本ではクリスマスが私の「ドイツ」であったように、子どもたちにとっては、年末年始が「日本」なのかもしれません。彼らがいつか日本に住むようになるかもしれないし、日本に全く関心を持たなくなる日がくるかもしれません。でも、自分にとって、言語ではなく、父の存在そのものが今の私の基盤になったことを思えば、ベトナム人の父の文化も加わった子どもたちの将来の可能性は計り知れません。

多言語・多文化環境で育つということは、「一生ただで海外旅行に行けること」と同じくらい恵まれたことだと、後天性バイリンガルの私は今、自信を持って言えます。


シュペネマン望(Nozomi SPENNEMANN )さん

日独ハーフ。ドイツ生まれ。3歳から大学卒業まで京都で育ち、故郷は今も京都。1990年よりベルリン在住。社会福祉のプロジェクトマネージメントが専門で、ドイツの移住者NPOの支援を本業とする傍ら、ドイツで老後を迎える日本人高齢者のボランティア支援を行う公益法人「デーヤック友の会」の代表を務める。ドイツにおける邦人社会への献身と貢献により2022年に外務大臣賞を受賞。もともとヨーロッパよりもアジアが好きでドイツで暮らすようになってからハングルを学び、仕事関係でもよく使うベトナム語は会話のおおまかな内容を理解するには不自由しない。趣味は読書。

【3つのリレー質問】

① 気に入っている「日本語の言葉や表現、漢字など文字」は?

「持ちつ持たれつ」(言葉として気に入っているかは別にして、仕事でもボランティアでも自分の人間関係の鉄則のようなもの)

② 日本で人に言われて「嬉しいこと」と「いやなこと」は?

「うれしいこと」は(友達に)「はよ、帰ってきーや」と言われること。「いやなこと」は「日本人より日本人みたい」と言われること。

③「自分の中の日本語」を色や形、一つの言葉にたとえると?

活字。(無類の本好きで、話す日本語より、活字に触れる時間の方がずっと多いので)

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