ことばと本

ことばと本

物語から広がる体験

奥村三菜子

「新書じゃなく、小説を読め!」…大学1年のときに保健体育の先生から言われた印象深いことばです。先生は新書を否定したかったのではなく、「物語」を読むことを通して、若い学生たちが自由な発想と想像の力を得ることを願ったのだと思います。以前にも増して効率や実益が重宝がられるようになった今の時代にこそ、多くの物語に触れ、ゆるやかな感性を育むことの大切さを実感します。

子どもの心とことばの発達・成長には、さまざまな体験が重要だとよく言われます。ですが、私たちが実際に体験できることには物理的に限りがあります。これを補ってくれるのが「物語」です。物語の中でなら、宇宙に行くことも、千年前の世界にタイムスリップすることもできます。動物や妖怪と話すことも、いろいろな年齢や職業の人と出会うこともできます。小さな子どもにとって、「ごっこ遊び」はたとえフィクションであったとしても、そこで体験する感情はホンモノであると言われています。ですから、物語世界での体験は、子どもにとって実体験と同等の「心体験」の一つとして刻まれていきます。

以前、日本語補習校の幼児クラスで『じゅげむ』の読み聞かせをしていたときのことです。「和尚さん」ということばを耳にしたR君が「あ、やまんば!」と叫びました。どうやら彼が初めて「和尚さん」ということばと出会ったのは『三枚のお札』という物語の中だったようで、彼にとって「和尚さん」と「やまんば」は切り離せない心象風景の中にあったのです。その彼が、『じゅげむ』を通してもう一つの和尚さんと出会いました。新しい和尚さんと出会った彼は、「じゃあ、他にもいっぱい和尚さんがいるの?」と言いました。R君は二つの和尚さんとの出会いから想像の翼を得、次なる和尚さんをも創造し始めたのです。新たな体験とは、1+1=2のように単純に加算されるだけでなく、1+1=5のように大きく広がりながら子どもの中にどんどん根を張り蓄積されていくものであることを、この出来事は物語っています。

新たな物語との出会いは異文化体験です。さまざまな異文化と出会うことで、既存の価値観は打ち砕かれ、固定化したものの見方から自由になることができます。実世界と同様、物語世界の中にもいろいろな文化やことばがあります。そのどれもが愛おしく尊いと思える感性や、まだ見ぬ世界への好奇心を、物語は私たちに与え続けてくれます。それは実世界で起こる差別や紛争を解決する力ともなっていくでしょう。

物語への入口は無数にあります。その子が今、自ら手に取ったその一冊の中に体験の森が広がっています。私たち大人にできるのは、子どもたちがいつでも物語世界へと旅立てるよう、今日の一冊、明日の一冊を自由に手に取れる環境を提供し、そして、その旅に一緒に出かけてみることではないでしょうか。

これから、このリレーエッセイ「ことばと本」では、執筆者お一人お一人の本との出会いや体験が綴られていくことと思います。そのどれもが新たな世界の扉をひらく鍵となるでしょう。どんな世界へといざなってくださるか、とても楽しみです。


奥村三菜子(OKUMURA Minako)さん

〈チーム・もっとつなぐ〉アドバイザー/NPO 法人 YYJ・ゆるくてやさしい日本語のなかまたち副理事。専門は日本語教育、継承日本語教育。過去に約10年間ドイツの大学や日本語補習授業校等で日本語教育に携わる。現在は、日本国内においてCEFR を応用した教育実践 や CEFR に関する研修・ワークショップなどを行っている。主著書に『日本語教師のための CEFR』(共編著,くろしお出版,2016) がある。

【2つのリレー質問】

① ずばり一言、本は「私」にとって?

 心のごはん

② 記憶に鮮明に残っている子ども時代の一冊は?

 『たあくん』(間所ひさこ・文、長谷川知子・絵、偕成社)

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