複言語/継承語を考える

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日本語教育推進法の目指すもの

母語継承語バイリンガル教育学会海外継承日本語部会前代表 / ジョンズホプキンス大学国際問題高等大学院講師 カルダー淑子

「日本語教育推進法」について、お聞きになったことがありますか?

日本語を学びたいと思う人、学ぶ必要のある人に対して、日本政府が適切な支援を行うことを約束した、新しい法律です。2019年の6月に国会で成立しましたが、その背景には、国内で増え続ける外国人就労者の日本語教育を適切に行うという、時代の大きな要請がありました。

同時に、この推進法は、日本の国際化を進めるため、海外における日本語教育の振興も目指しており、その支援の対象には、私たちが海外で日本語を伝えていきたいと願っている、日本出自の多くの子どもたちも含まれます。つまり、この日本語教育推進法は、在外の子育てに直結する重要な法律であり、その成立は、多くの先生やご両親にとって見逃すことのできない大事な動きです。

少し、硬い話になるのですが、この推進法の第3章2節の「海外における邦人の子等に対する日本語教育」の中に「国は、海外に在住する邦人の子、海外に移住した邦人の子孫等に対する日本語教育の充実を図るため、これらの者に対する日本語教育を支援する体制の整備その他の必要な施策を講ずるものとする。」という文言があります。 分りやすく言えば、海外に永住していく日本出自の子どもたちの日本語教育に日本政府が支援を行うことを約束した条文であり、私たちが長年望んでいた願いが実現に近づいた、これまでにはない一文だということになります。

ご存知の方もおられることと思いますが、この推進法に「日本を出自とする在外の子供たちの日本語教育の支援を政府が行う」という文言が盛り込まれた背景には、海外に在住する2000人を超えるご両親や先生、それを支援する方々の熱意と努力がありました。ここでは、その海外の運動がなぜ起こったのか、それを支えた方々の思いはどのようなものだったかということを、振り返ってお伝えしたいと思います。

 

声を上げるまで

海外に永住を予定する家族にとって、自分の生まれ育った国の言葉を子供に伝えたいという願いは本能のようなもので、「私は私の言葉で自分の子どもと話したい」という心情は、国境や言語圏を超えて多くの方に共通しています。それは、戦前の南米や北米・ハワイに集団移住をされた方々が困難の中で日本語の学校を維持したことにも通じるものであり、各地に残るその記録は、読むたびに心を打たれます。

この「私の言葉を次の世代に伝えたい」という思いは、戦後の高度成長期になり、個人の意思で海外に永住する道を選んだ多くの人にも共通するものであり、子どもたちに日本語を残そうと、幼児教室や親子サークルを立ち上げ、週末の日本語学校を支えておられるご両親、国際結婚のお母さん、お父さんの数は、合わせて数十万人にものぼるとみられます。

そういう中で、渡航者の多くは、海外に出た自分たちの子どもの日本語教育は、自分でするものだと、考えてこられたのが通例ではなかったでしょうか。「自分の意志で海外に生きる道を選んだのだから、子どもに日本語を伝える教育の支援も、日本政府に求めるものではない」という思いが、多くのご両親に共通していたように思われてなりません。

また硬い話になるのですが、日本国憲法の26条には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利がある」と明記されています。しかし、ここでいう教育の場はあくまでも国内であり、日本政府の主権の及ばない外国における教育は、その対象が日本にルーツを持つ子どもであっても、法の規定は適応されないというのが、日本政府の基本姿勢でした。

そうした中で、政府の認可する各地の日本人学校や補習校の中には、先生の給与や校舎の借用料に政府補助を受けている学校が数多くあります。その背景には、「海外とはいえ、特に学齢期の子供には、憲法の主旨が出来るだけ届くよう、支援を行う」という不文律があったと言われます。しかし、もう一つ込み入った話になるのですが、政府認可の補習校の中に、文科省指導要領に基づかない継承語コースなどを立てた場合には、それは文科省支援の対象から外されるという内規が、今もあります。もともと補習校とは、日本に帰国を予定する駐在員家庭の子どもを対象に、日本の経済高度成長の時代に作られた制度であり、補習校は帰国を予定しない子どもの入学を拒まないものの、そこに永住家庭の子どもを主対象にした継承語コースや国際学級を作る場合には、それは文科省支援の対象から外されるという原則です。こうした法律上、制度上の制約もあったために、永住を予定する多くの保護者は、子どもの日本語教育は自分たちの手で行うもの、という思いを持たれてきたのではないかと思います。

 

推進法の運動で繋がった各地の仲間たち

そうした中で、多くの在外の家族や先生の注意を引いたのは、2018年の夏に公開された日本語教育推進法の原案でした。この推進法は、前記のように、国内の外国人就労者の日本語教育の質の向上を主な目的に、政府が支援を行うことを明記した法案でしたが、海外における日本語教育の充実も対象にありました。しかし、そこに書かれていた支援の対象は、①海外の学校や日本語教室などで外国語としての日本語を学ぶ非母語話者の学習者と、②在留邦人の子等の2種だけであり、海外に永住していく日本にルーツを持つ子どもたちのための継承日本語教育の支援は、条文にありませんでした。

この情報が、オンラインで世界各地に流れたのは、2018年の夏の初めでしたが、在外の家族や先生がまず問題にしたのは、この「在留邦人の子等」という言葉の中に、在外永住者の子どもも入るのだろうかということでした。その文言から考えると、これは海外に一時滞在して、いずれは帰国をする邦人を指すのだという意見が多く、この法律の原案の不備を正そうという署名運動の話がオンラインのやりとりの中から持ち上がりました。

その運動の母体になったのは、母語継承語バイリンガル教育学会(通称M H B学会)の海外継承日本語部会で、私はその部会の代表を務めていたのですが、この署名運動は、部会にとっても、それを支えて下さった多くの部員にとっても、忘れられない出来事になりました。

各地の声に押されるようにして、部会がオンラインの署名サイトを立ち上げ、要請文を作って部員の皆さんに呼びかけて情報を配信したのは2018年の10月の半ばでしたが、その反響は目覚ましく、情報は北米、欧州、アジアと、世界各地を駆け巡り、サイトの立ち上げからわずか2週間余りで、2000筆を超える署名と、それに添えた500通に近い意見が集まったのです。私はその頃、署名サイトから目を離せずにいたのですが、見ていると、時差の変化によって朝になる地域からうねりのように署名が入り、それが時の経過と共に他の地域に移って行くのは壮観であり、世界中に散住する見ず知らずの方々が一つの思いで立ち上がり、動いておられる様子を目のあたりにして、胸が熱くなる思いがしたものです。

その署名を寄せられた方々は、各地の現場で苦労をしながら子育てにあたる皆さんで、週末の学校や幼児教室などを運営する先生や国際結婚のお母さんたち、家庭で孤立しながら子供に日本語を残そうと懸命の努力をされているご両親、文科省認可の補習校で多言語環境の子供にふさわしいカリキュラムを作ろうと奮闘される保護者など、まさに多種多様でした。署名に添えた意見の中には、在外の長い子どもたちへの教材作成の支援や教室の確保、先生の養成に対する支援を求める声、オンラインによる子育てガイダンスの提供の望む声など、多くの切実な要望が書かれていましたが、そこに共通するのは、海外の多言語環境で育つ子どもこそ、本物のグローバル人材であり、政府支援が必要なのだという強い思いでもありました。

 

運動が政策を変えた

このようにして集まった署名と意見を抱えて東京に行き、推進法の原案を作成された日本語教育推進連盟の主要議員さんにお届けしたのですが、そこで伝えられたのは、「海外に永住する子どもたちの日本語教育が、このように多くの方々の思いで支えられていることは全く知らなかった」という議員さんたちの率直な声であり、在外の私たちには日常のことである日本語継承の現場の実態が、国内の政策を作る人々には、驚くほど知られていなかったという事実も改めて身に染みました。

このように海外の多数の声が届いた結果、日本語教育推進法の原案には、上記の「海外に移住した邦人の子孫等」への日本語教育の支援の文言が追加され、この原案は、翌年の6月に国会に上程されて、成立しました。当時の海外継承日本語部会のメンバーは270人ほどでしたが、欧州の先生方をはじめとする部員の皆さんが国境を超えて声を掛け合い、情報を流し合って2000筆を超える署名を集めた、その輝かしい結果でした。

 

その後のこと

この推進法については、翌年の2020年の春に、その実施をめぐる政府方針案が公開され、文化庁による意見公募が行われたのですが、これに対しても、南米を含む世界各地から数百通の意見が寄せられ、最終的な政府方針には、「海外に移住した邦人の子孫等は「多様な言語・文化背景を持つグローバル人材としての活躍が期待できる」と認める文言が書き込まれ、国際交流基金がその支援の主な機関になることも明記されました。長年にわたる自助努力で継承語教育を続けてきた各地のご家庭や小規模の日本語教室などにも、政府支援の手が届くという道筋が付けられたわけです。

 

これからも続く歩み

しかし、このように法律の中に政府支援は明記されたものの、その後の実情を見ると、運動の成果はまだ十分とは言えないことが分かります。それは推進法の成立後の政府予算の中で、国際交流基金に対する継承語教育に特化した予算が付いていないことで、多様な支援を期待する各地の現場の要請に、基金が十分な体制で臨むことは難しいことも予想されます。そうした中で、欧州をはじめとする基金の各地のセンターでは、多言語家庭に焦点をあてた勉強会やワークショップに対する支援が行われており、助成をしてくださる方々の静かな熱意を感じます。このような活動の輪が広がり、世界の継承語教育全体に対する政府支援が確実になるよう、私たちは引き続き声を上げていく必要があるのではないでしょうか。

「子どもたちのために、より良い教育を目指し、政策に向けて声を上げることは教師の社会的責任」という考えは、今や世界の先生や保護者の共通の思いです。在外の私たちこそ、こうした信念を分かち合い、これからも声を上げていきたいと願うものです。

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