ことばと本

ことばと本

ことばが血となり肉となる

住吉千夏子

ある日のこと、当時3歳の娘が、とてとてと歩いてきて言いました。「パンパース……かえて……くれ……たまえ?」3歳児の話し方としては珍妙で思わず吹き出しましたが、要するにおむつ(パンパース)が一杯になったので取り替えてほしいと訴えてきたのでした。一体どこでこんな言い方を覚えたのかと不思議に思いながらおむつを替えていて、はたと気づきました。かばです!絵本の『おふろだいすき』に登場するかばです!「みみのうしろを、わすれずにあらってくれたまえ」とか「あしのゆびも、きれいにしてくれたまえ」とか言って、主人公の「ぼく」に体をきれいにしてもらうのです。娘は、私が読み聞かせたかばの台詞から、体をきれいにしてもらいたい時は「〜くれたまえ」と言うのだと考えたようです。なるほど、こんな風にして「耳から入ったことば」が「自分のことば」になってゆくのだと妙に感心した出来事でした。

英語から日本語への翻訳を仕事にしているのですが、日本語はニュアンスや表現のバリエーションに富んだ言語だと日々感じています。例えば英語の“You”は、話し手(または書き手)と相手との関係により「あなた」、「きみ」、「おまえ」、「あんた」など様々に訳し分けられますし、文脈によっては単数形ではなく複数形の“You”で、「きみたち」とか「あなた方」とか「あんたら」かもしれません。またビジネス関連のテキストなら、「御社」とか「お客さま」などと訳すのが適切だったりします。また、日本語では頻繁に主語や目的語を省略するため、”You”を訳出しない方が自然な場合も多々あります。おまけに日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字があり、「おまえ」、「お前」、「オマエ」など、表記方法によって読者に与える印象が変わってきます。

本の中には、作家や翻訳者、編集者といったことばのプロがこだわりを持って、精魂を込めて練り上げた、とっておきの「ことば」が詰まっています。表現や言い回し、表記方法まで、熟考を重ねた上で本は作られています。日本を離れて暮らしていると、日本語に触れる場面がどうしても限定されますし、使う頻度も少なくなりがちです。だからこそ、特に第二の母国語として日本語を習得中の子どもにとって、本の世界で多様かつとっておきの「ことば」を見聞きし、楽しみながら自分の中に吸収してゆく過程が、とても大切だと思うのです。

冒頭で紹介した娘の言葉遣いは、なんだか仰々しくておかしかったのですが、絵本の中の日本語が自然な形で血肉化されるのを見て嬉しくなりました。私たちはこれからもドイツで暮らす予定ですが、娘には本の世界を体験しながら多彩な日本語に触れ、楽しみながら日本語の引き出しを増やしてもらえたらと願っています。

 

 

 

松岡享子・作/林明子・絵『おふろだいすき』福音館書店

住吉千夏子(SUMIYOSHI Chikako)さん

英日翻訳者。2015年よりドイツ在住。ドイツ人の夫と2017年生まれの娘とケルンに暮らす。訳書に『たびネコさん〜ぐるりヨーロッパ街歩き〜』(きじとら出版、2016年)がある。娘に話しかける自分の日本語がさびつかないように、また翻訳の仕事に役立つようにと理由をつけて、暇さえあれば本の世界を旅して楽しんでいる。

【2つのリレー質問】

① ずばり一言、本は「私」にとって?

頭と心の活性化剤

② 記憶に鮮明に残っている子ども時代の一冊は?

『ふしぎな庭』(イージー・トゥルンカ・作/絵、いで ひろこ・訳、ほるぷ出版)

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